ホメオパス一覧

岩崎 健寿ホメオパス

8月11日生まれ。群馬県出身。

家の近所には通称「おおたんぼ」と呼ばれるだだっ広い田んぼがあり、畑も多く、親戚には農家が多い土地に生まれる。

祖父母の不仲と自信のない子ども時代

わたしは第一子の長男ということもあり、祖父と祖母に、それぞれかわいがられていた。
しかし祖父と祖母は、わたしが物心ついたときから、決して仲が良いとは言えない間柄で、顔を合わせるたびに喧嘩をしていた。
その怒鳴り声が聞こえるたびに、幼いわたしはビクビクしていた。
そんな生活環境のせいかどうかは分からないが、集団生活の場ではあまり自己主張できず、自信のない子どもだった。
何か自分の許容範囲外のことが起きると、よく泣いていたことを覚えている。

湿疹、中耳炎、ぜんそくが始まる

4~5歳の頃から全身に蕁麻疹が出たり、中耳炎を繰り返すようになった。
同時期に小児喘息も発症した。毎日薬を飲んでいるにもかかわらず、毎年秋になるとブタクサアレルギーで大発作を繰り返し、小学校3年くらいまでは毎年入院していた。
そのときよく担当してくれていたDr.が飯山先生という小児科医で、とても優しく子どもの目線でいつも接してくれていた。
将来漠然と何か人の役に立ちたいと思ったのは、飯山先生という理想的なモデルの存在が大きいように思う。
喘息の発作は、小学5年の林間学校のときが最後だった。林間学校初日、クラスメートと過ごすはじめての夜、当たり前のように部屋の中で、活発な男子連中が枕投げを始めた。
部屋中に舞うホコリのせいで発作が起こり、苦しさのあまり部屋の隅でメソメソ泣いていた
発作の息苦しさと、「枕投げを止めてくれ」と言えない苦しみがあった。

スポーツを始めたことで自信が芽生える

小学3年から週2日で通い始めたスイミングスクールは、小学5年の終わり頃にはタイムを競う育成コースになり週6日ガシガシ泳いでいた。
それ以来喘息が再発することはなかった。
小学5年からは少年野球チームにも入った。
体格に恵まれ、周りの友だちよりパワーに勝り、ボールを遠くまで飛ばすことができた。そうした体験から、少しずつ自信が芽生えた。結局、中学・高校を経て大学まで野球をつづけた。
スポーツは水泳と野球の他に、父親にスキーを教わっていた。
小学3年の冬休み頃からスキーをはじめ、それ以来毎年冬が来るたびに、スキー場へ連れて行ってもらっていた。大学から社会人4年目くらいまではかなりのめり込んで、就学先や就職先をスキー目的で山岳都市に選んだ。
走って、投げて、泳いで、滑る、これらのスポーツは種目は違うが全身運動という共通点があり、成長期にそれぞれ経験できたのは良かったと思う。
ところで、「ゲレンデがとけるほど恋したい」そんな広瀬香美の歌が流行ったのは、わたしが中学を卒業するかしないかの頃。
恋よりもスキーに夢中で、社会人になってからコブをガンガン滑っていたときに、ゲレンデで今の上さんと知り合った。
ゲレンデがとけるほどの熱い恋ではなかったが、ロマンスの神様は何かに夢中になっている人に降りてくると学んだ。

スポーツはわたしの体質に合っていた

わたしの体質はアーユルヴェーダでいうところのピッタ&カパである。
子どもの頃から親しんでいたスポーツは、私の体質に合っていたと感じる。
むかし覚えたスポーツは、今でも爽快感と充実感を得られるからありがたい。
フィジカルに対してメンタルの弱さを自覚していたが、スポーツをはじめたことで少しずつそれが解消されていった。
特に高校野球の経験は大きかったと感じる。2年の秋から上級生が引退し、新たにチームメイトや後輩をリードする立場になり、自信を深めるきっかけになった。
高校野球はいろんな意味で暑苦しいが、苦しさを解消する術をそのとき学んだ気がする。
同学年の部員はマネージャー含めて9名で、練習はまじめにするくせに、試合では勝てないメンタルの弱さが突出している弱小野球部だった。それでも、ともに過ごした密度の濃い3年間の仲間は、数十年経った今でも仲が良い。

実家を離れて広がる世界観

高校卒業と同時に実家を離れ、世界観が広がった。
同時に人の多様性にも触れることになり、これまでの価値観が大幅に書き換えられた。
1年間、大学浪人という立場で親元を離れ、首都圏近郊にある大学予備校の寮に入ったが、勉強など手につくはずもなく、同じように地方から上ってきたいわゆる落ちこぼれたちと仲良くなった。個性的で変な奴が多かったが、なぜか本を読んでいる者が多く、その影響もあって読書が好きになった。
子どもの頃は内向的だったこともあり、「心」や「精神」に関心をもちはじめた。
「心」を知るためには「こころ」と付いた本を読めば良いと思い、わたしは一番初めに夏目漱石の「こころ」を読んだ。しかし、これがとんでもない本で、わたしが知りたい「心」とはまったくそぐわない内容で、費やした時間を返してほしいと思った。
大学は地方の小ぢんまりしたところで、精神保健福祉を専攻し、2年次まではよく遊び、3年次からは実習や単位取得で忙しくなり、4年次はいっさい就職活動せずに短期集中で国家試験の勉強に取り組んだ。
無事に試験をパスし、ゼミ仲間の口利きもあって、無事に就職した先は地方の大きな精神科病院。おそらく個人経営の病院では、当時日本一の病床数を誇っていたはず。院長はその地域における長者番付一位の常連だった。わたしのなかで精神科医は儲かるというイメージがそこで定着した。
病院では精神科ソーシャルワーカーとして働くことになった。そこの医局は超個性的な医者たちが集まっていて、そのなかでもとりわけあなたが精神疾患を患っていませんか?と問いたくなるような、まるでジキルとハイドのような女医がいた。不幸にもその女医とアルコール依存症のプログラムを共同担当することになり、就職を斡旋してくれたゼミ仲間を呪った。
配属先はデイケアで、毎日レクリエーション的な業務が多く、職場としてはけっこう楽しかった。

精神科病院で働いて気づいたこと

しかし、ある日気づいてしまった。
本来デイケアは社会復帰を目指して通う場所だが、そこを卒業する患者があまりにも少なすぎることに。
もともと療養病棟が大半を占めるその病院の患者は、定期受診やデイケア利用など、通院が日々の日課に組み込まれていた。
精神科病院も生き残りをかけて、いろいろ棲み分けが必要だと理解したのは、それから何年も経ってからだ。
そんな大規模療養型病院のデイケアから、卒業患者を期待するほうがズレている、と言わざるを得ないのだが、当時のわたしにはそれが分からなかった。
大学出たてのピュアなわたしは、恥ずかしながら薬を飲めば精神病も治ると思っていた。
「寛解」と「治癒」の意味するところは、ほとんど同じと思っていたわたしは、その認識が間違っていたことに気づく。
精神科医療でいう「寛解」は低め安定の意味で、薬で過鎮静された状態で、かろうじて地域で暮らせている状態のことだった。
薬の副作用で嚥下困難になり、ラーメンを詰まらせて亡くなった患者や、親にデイケアまで車で送迎してもらっているにもかかわらず、プログラムには参加せず、日中ひたすら寝ている患者など、どこかおかしいと思いつつも、毎日同じような光景を見ていると感覚がマヒしてしまっていた。
それでも、わたしのなかの違和感は少しずつ大きくなり、時間があると、いつこの職場を離れようかと考えるようになった。

ホメオパシーとの出会い

ある日、駅前の本屋でホメオパシーのことを書いた本に出会った。
実は、その2年前にもコンビニで立ち読みしていた雑誌のなかに、ホメオパシーの記事を見つけていた。
本を見つけたとき、コンビニで興味深く立ち読みしたその記事の記憶がよみがえった。
ホメオパシーを学んでみようと思い立ち、それから一年後に学校に入った。

ホメオパシーの学校で感じた劣等感

同期のほとんどは、本人または家族がなんらかの不調を抱え、すでにホメオパシーのヘビーユーザーだった。それもそのはず、レメディーを摂ってなんらかの変化を得られなければ、わざわざ大金払って学校には来ない。しかし、わたしはホメオパシーのことを本で読んで、単に面白そうという理由だけで入学してしまった。だから、周りの同期とは比較にならないほど、自然療法に対する知識が無く、また動機も浅はかだった。
さらに、学年の同期は年上の女性ばかりで気後れし、1〜2年の授業はかなり居心地悪かった。
子どもの頃の内向的な性格が、再びわたしの心を支配し、毎回一番うしろの席で目立たぬよう授業を受けていた。

通学のために首都圏に移住し調子を崩す

話は前後するが、ホメオパシーの学校に入る少し前、通学のために地方から首都圏に移住した。
ところが、これまで地方の田舎でしか暮らしたことのないわたしにとって、首都圏暮らしは想像以上にしんどかった。
人の多さと喧騒、知らない土地での不安や新たな職場に慣れなければならないプレッシャー。
気が休まるときがなく、神経が立ちっぱなしだった。
熟睡できない日がつづき、もともと物覚えが悪いのにさらに悪くなり、うつ症状が出はじめた。
妙にイライラする日があったと思ったら、次の日には朝のニュース番組を見ながら急に涙があふれてきた……ギブアップ。
そこではじめてホメオパシーの健康相談会を受けた。
処方されたのはNux-v.(ナックスボミカ)とPhos.(フォスフォラス)。
不眠と神経過敏な現状に加え、首都圏移住の1年前から昼夜を問わず、睡眠時間を削ってダブルワークしていたことがNux-v.に合致したらしい。そしてPhos.は結核系の傾向をもつ根本体質ということだった。
ところで、ダブルワークの夜のお勤めはお水の世界で、スーツ着用が義務付けられていた。「いらっしゃいませ」と片膝ついて、席に座ったお客様におしぼりを献上する。接客業の厳しさと楽しさを経験させてもらった1年間だった。ある時、わたしのことを気に入ってくれた客から、1万円札を3枚もらった。それを店長に伝えて渡したら、1枚しか戻ってこなかった。だから、次に5枚もらったときは、そのままポケットに入れた。

回復の兆しは観念してよく休み自然に触れたこと

ホメオパシー健康相談会を受けて処方されたレメディーを摂りながら、おかげさまで半月ほどで回復の兆しが見えてきた。
正直、処方されたレメディーの効果というより、都会の喧騒を離れて実家でゆっくりしたことが奏功したと思う。また、少し前まで住んでいた馴染みの山岳都市で、山歩きしたことが回復をうながす大きな要因だと思う。(しかしながら、処方されたレメディーがわたしの思考や感情に影響し、実家への帰省や山歩きを実行させたのかもしれない……というふうに考えることもできる。レメディーの興味深い作用として、周りの環境が変化した、と思わせる場面に出くわすことがある。しかし、実際変化しているのは自分であり、自分が変わったために周囲の反応が変化する、ということがたびたび起こる。)

レメディーを摂りながらライフスタイルを見直す

わたしはここで主にライフスタイルについての記事を書いている。
その主な理由として、ただレメディー摂るだけよりも、ライフスタイルの改善を兼ねたほうが、相乗的に効果が得られると思うからである。
ホメオパシーも大事だが、まずは現状のライフスタイルを見直し、何かに気づくことが大事だと思っている。
ホメオパシーの生みの親であるハーネマンはその著書のなかで、病気を招きやすい生活習慣のことにも触れている。
問題を解決するためには、問題に取り組む前に、その問題を正しく理解する必要がある。

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